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“日本の洋式靴産業の始まりとその後の取り組み”

M.T

はじめに

 日本における革靴づくりの歴史は、わずか140年程度です。一方人間が皮革を利用し始めたのは古く、先史時代から始まっています。人類は、寒さや風雨などから身を守るために動物の皮を利用してきました。人間だけが他の動物の皮を利用して、生活を維持している唯一の生き物であり、最近、世界最古の革靴(紀元前3500年)がアルメニアで発見されました。

 日本における皮革に関する文化や製革技術そして応用技術分野は、古くは大陸などから移入された歴史があります。弥生時代後期には大陸からの渡来人・帰化人がなめし技術などを伝え、その基礎を築いたとも言われており、大和時代にすでに最古の皮革利用に関する記録があります。当時は皮に付いていた脂を取り除いただけの毛皮が、そのまま利用されていました。

 飛鳥時代に入り、朝鮮半島から製革技術を持った者が渡来し、外来文化の一つとして進んだ製皮革技術、皮のなめし法などが伝えられました。当時、最も愛用されたのは鹿革でした。

 皮革の用途としては馬具、甲冑(かっちゅう)、弓などの武具が主たるものでありましたが、草履、敷物、紐(ひも)、装飾品などにも応用されています。

 日本人の履物としては、古くから皮革や稲わらでつくられた履物が存在していましたが、それらは豪雪地方を中心に猟師や漁夫、百姓によって用いられたものです。また、7世紀に渡来した大陸文化の影響で、宮廷人たちは、金属、革、繊維で作られたさまざまな種類の履物を官位、職業に応じて着用していました。「クツ」という言葉は韓国語の「クドゥ」(Kutou)から由来しているとも言われていますが、10世紀以後で、日本人が着用したのは、主として土着の下駄、草履でした。

日本における洋式靴の製造の始まり

 日本は寝るときと風呂に入るとき以外は、靴を履いているという習慣を持つ文化圏ではありません。そのような日本社会において、世界市場でも恥ずかしくない優れた靴を作り出せるのは、明治以降の靴づくり事業者やそこで働いた職人などの不断の努力と、こだわりをもったものづくり精神があってのことだと考えます。

 それでは、明治の初期に産声を上げて発展してきた日本の靴づくりは、現在までどのようにして技能・技術を継承させてきたのかについて、少し触れてみたいと思います。

 西洋的な靴は、開国後の産業化が始まった1860年代までは、まったく他国の履物でした。日本で最初に洋式靴を履いたのは坂本竜馬(写真―1)だといわれており、竜馬が着用したものと同様なスタイル・復元靴イメージは、写真のようであったと思われます。(写真―2:㈱ドン・シューズによって復元された靴)

 明治以降の西洋文化の導入とともに日本の皮革産業は、近代的な製品技術、工業化が進みましたが、そのような中でも、皮革技術に関しては、日本古来の伝統技術を活かし、外来技術を吸収して、日本独自の皮革文化を育んだと考えられます。

 西洋流の靴製造は、幕藩体制の崩壊を契機に武士階級によって始まり、外国技術を吸収するために外国人の指導を受け入れ、下級武士出身者たちが中心になって靴の製造を学び、洋式靴産業の先駆者となっていきました。

 兵部省大輔大村益次郎(当時の陸軍次官に相当)は、陸軍の近代化に取り組んでいたところ、輸入した軍靴が大きすぎて日本人のサイズに合わないことに困り、旧佐倉藩士であった西村勝三に日本人に合う軍靴の製造を勧めました。

 勝村は大村の勧めを受けて明治3年(1870年)3月に、築地入船町に伊勢勝造靴場を開業しました。そして、その工場と合わせて佐倉城内の武道館用地を利用した洋式靴の工場「佐倉相済社」を設立し、佐倉藩士が士族授産の伝習生として靴の製造にあたりました。これが日本における洋式靴製造の始まりです。(写真―3:東京都中央区入舟町3丁目に設置されている靴業発祥の地である記念碑)

 工業化の創設期では、自分たちの力でいかにして靴が作れるようになるか、西洋の革靴製造技術を学ぶことでした。そこで技術習得に指導的役割を果たしたのが、他の産業でも見られたように、西洋からのお雇い外国人達です。この時期にフランスで靴製作を学んだオランダ人の職人のレ・マルシャンを招き、指導を受けつつ本格的な洋式靴の製造を始めました。マルシャンは日本の洋式靴生産に大きな足跡を残した恩人で、後に帰化し磯村姓となりました。(写真―4:青山墓地内にあるマルシャンの墓)

写真-1 靴を履いた坂本竜馬

写真-1 靴を履いた坂本竜馬

写真-2 復元された靴

写真-2 復元された靴

写真-3 靴業発祥の碑

写真-3 靴業発祥の碑

写真-4 マルシャンの墓

写真-4 マルシャンの墓

靴職人の取り組み

 明治時代初期の人達の一般的履物は、草履、下駄、わらじなどでした。明治の鹿鳴館時代ごろから一般の人達にも徐々に革靴が浸透し始めたのです。

 そのころの靴製造に携わったのがいわゆる靴職人です。1900年初頭(明治33年当時)には多くの靴職人が存在するようになりました。

 当時の靴職人は、時代の先端を行く職業の一つでもあったのです。革靴は、現在のような既製の革靴は少なく、注文によるものが一般的であったため、手づくり靴を手縫いで行うか、ミシンも使って行うかなどは別として、靴職人の活躍する場が多くありました。職人たちは、熱意をもって自分たちの技能・技術を競い合い、さらなる靴づくり技術への挑戦を怠らなかったのです。

 このころの靴職人を目指す者は、いわゆる徒弟制度のもとで靴職人の親方のもとへ弟子入りし、長い年月をかけて俗に言う親方の技を盗み取る非効率的な方法で、靴づくりの技能・技術や知識を身につけて行きました。また、職人根性のよくない側面として、自分の職域を守るため、職人によっては、あまり技能・技術を教えたがらないこともあったようですが、それでも人から人へ、手から手へと革靴づくりの技能・技術は、継承されていったのです。現在の手づくり靴の技能・技術のほとんどは、デザインは別として明治から大正、昭和へと引き継がれて確立されたものです。

こだわりの手作り靴

 ここで、“こだわり”と言う言葉について少し触れておくことにします。

 ”こだわり“とは、本来は「物事に執着し過ぎて、融通がきかない」、「小さいどうでもいいことに引っかかって文句や執着する」、「些細なことにとらわれて本質を見逃す」など否定的な意味で使われる言葉だったのですが、近年では「厳選する」、「選び抜く」とか「心を注ぐ」、「自分なりの思い入れがある」、「妥協せず好みを貫く」など肯定的な意味での用法が広まってきています。

 さて、現在の靴製造には、大量生産で作られる靴と、一品生産(誂えの手づくり靴など:ビスポーク)で作られる靴とがあります。当然、製造方法も両者に違いがあります。量産品の靴は、何種類かの足形やサイズを想定して、何通りかの基本となる木型が準備されて、靴専用ミシンや接着剤を多く用いた製造方法です。

 一方、一品生産の場合は、足の形が人それぞれで違っており、同じ形をした足はなく、同じ人の足でも、右足の形と左足の形が違うことがしばしばあることなどから、足の採寸を行い、その人専用の木型を作って、それを基に製造が行われます。

 しかしながら、一品生産の靴は、量産品の靴に比べ製法や工程数、縫製の違いなどによって、1人の製作者が作り上げられる数量が少ないため、その分値段が高価になってくるのです。

 一品生産における靴づくりの“こだわり”について見てみると、当然のことながら靴を履く側の求めるこだわりに対して、どう応えて満足を与えられるか、と言うことです。

 前述した大塚製靴株式会社は、日本製靴株式会社(現:リーガルコーポレーション)とともに、日本における靴の老舗の一つであります(明治5年1872年創業)。

 その大塚製靴㈱の現場で働くS氏は、昭和29年に19歳で入社、以来この道一筋60年余にわたり、手ぬいの靴づくりに取り組んできました。現在もショウルームで実演をかねて手縫いの靴をつくっています。

写真-5 S氏の靴づくり現場

写真-5 S氏の靴づくり現場

手縫いの靴をつくる工程は、ラストの製作(靴型)、アッパーの製作(甲革:靴の表の部分)、釣り込み作業(甲革と中底などを縫い付けていく)、底付け作業など多くの工程があり、複雑です。それぞれに「職人の技」的な熟練の技能・技術と経験が駆使されています。

 しっかりと仕立てられた手縫いの靴の特徴は、足蒸れが少なく、足に馴染んだ履き心地が得られ、丈夫で長持ちし、型崩れせず、靴底などの修理が可能なことなどがあげられます。

 それらを可能にしているのは、多くの技の存在です。例えば、板状の革を曲面に沿わせてカーブを作って行く技や、松ヤニとロウ引きの麻糸で、一針ごとに形状に合わせて糸の張りを微妙な力加減で調整しながら、細かい間隔の運針ですくい縫いをして行く技などもその一つです。

 靴職人のS氏の靴づくりへの“こだわり”を聞いてみたところ、靴を履いたときの履き心地であり、新しい靴を履き始めてから、次第に靴全体があたかも足を包み込むような感じが得られるような、履くほどに足に馴染む靴を作り出すことだそうです。(写真-6:注1)

写真-6 誂えの手縫い靴(写真提供大塚製靴)

写真-6 誂えの手縫い靴(写真提供大塚製靴)

 これは、量産品の靴が縫製用のミシンと接着剤を多用して作られるのに対して、一品生産の手縫いの靴は、糸の張りを微妙な力加減で調整しながら、細かい間隔の運針で縫って行く技から作り出されてくるのです。このような技などによって、耐久性に富み、堅牢で、しかも履いていくうちに次第に足に馴染んで行く靴になるのです。注文主の歩き方を見れば、その人が履いた場合に、靴のどの部分がどのように傷んでくるかを推測することができ、その対応も可能とのことでした。これらには、優れた技とそれを使いこなした多くの経験がないと実現しない“こだわり”なのです。

 しかもこのような靴は、磨り減った本底の交換をすることによって、10年以上も履き続けることが出来ます。また、中底に使用される材質の“こだわり”などによって、夏でも靴の中の蒸れを防ぐことも出来るのです。

戦後の靴づくりの変化

 明治以降順調に発展させてきた日本の革靴づくりは、戦後の高度成長における大量生産大量消費の社会現象を背景として、昭和35年ごろから急激な変化を起こしました。この変化は、高性能の接着剤を用いたセメント製法による靴製造技術の開発によるもので、靴の大量生産が安価で行われるようになりました。

 これ以前は、革靴は誂えるのが一般的でした。手づくりされた靴を長年履き、傷んだら修理をして履いていたのです。大量生産による安価の既製靴の出現は、修理がききにくい靴を、はき捨てにする履き方へと変化させていきました。

 大量生産による安価な靴の出現により、手づくり靴製造事業者が廃業に追い込まれ、靴職人の仕事が激減してしまったのです。これは、前にも述べましたが、手づくり靴を作る工程が多く、一人の職人が細部まで丁寧に作り上げて行くため、製造に時間がかかりその分価格が高くなることが、その一因でもあります。また、これらの全工程を一人で完全に行える靴職人は、熟練の靴職人であり、このような靴職人はそう多くはいないし、簡単には育たないのが現状です。

 手づくり靴の需要の激減により、靴職人の減少と高齢化により、製靴技能・技術の継承も危ぶまれていました。

 こんな状況がしばらく続いてきましたが、最近、手づくり靴を製造する事業者に朗報となる現象が起こってきています。靴職人を目指す若者が増えてきているのです。

 靴を製造するための技能・技術を指導する各種学校やそれらに類する指導グループ(工房)が多く存在するようになり、たくさんの受講生を集めています。これらの受講生は、靴職人を目指し実学一体のカリキュラムで1年から2年をかけて学んでいます。また、これらの者は、高学歴者で社会での職業経験がある者が多いのも特徴の一つです。中には、ヨーロッパなどに留学して靴づくりを学ぶ者もいます。

 若者が靴職人を目指す理由は、不確定な経済社会で手に職を付けたい、靴が身近ですきな靴に携わる仕事がしたい、将来手づくりの靴屋として出来れば独立したい、顔の見える客に履いてよかったと思われる仕事がしたい、最初から最後まで自分一人で作り上げる、ものづくりの喜びを感じる仕事がしたいなど様々です。これらには、ものづくりにおける”こだわり“の原点が含まれているように思われます。

 先日朝日新聞の夕刊(2014.7.17)に「海を渡った靴職人」の見出しで二人の若い日本人が海外で靴職人として活躍している記事が掲載されていました。

 一人の方は男性36歳、フランス・パリのおもに紳士靴のビスポーク(オーダーメード)を手がける老舗の重職を任されている方で、もう一人は女性33歳、イタリア・フィレンツェに店を構え、紳士靴と婦人靴を店とつながっている工房で作っている方でした。

おわりに

 日本のトップクラスの革靴製造技能・技術は、欧米のレベルに対して勝るとも劣らないものとなっています。この靴づくり能力を保持するとともに継承し発展させるためには、業界全体で意欲をもって靴職人を目指す人達を受け入れる体制整備が必要ではないかと考えます。これと同時に、現在の熟練の靴職人が退職していく前に、後へ続く人達に技能・技術を継承していく体勢と目先の事業を優先するあまり、この問題を先送りにしないよう不断の努力もまた求められているのです。さらに、日本製の靴のブランド力を発揮し発展させるためには、製靴に携わる人達の技能について、技能検定などを利用して正しく評価していくことと、事業所が現場で働く人たちの能力向上に努めて行くことも必要です。また、これらに対する官民あげての支援の取り組みも不可欠なことです。

最近一部ではありますが、既製の革靴に対して手づくり靴の良さが再評価されてきています。この期を逃すことなく、手づくり靴の愛好者のさらなる掘り起こしを業界全体として取り組むことが、望まれているのです。

:参考資料:

①「伊藤紫朗氏(Fashion File Real Style for Economist)」

② 小林達也著文明随想「継承と移転(日本の底力を読む)」

③(業種別審査事典(第11次)H20年版)

④(第11次業種別審査辞典第2巻社)金融財政事情研究会)

⑤ 村上、清水:塗装技術2008年10月

⑥ 山出暁子氏:エコノミスト誌(2000年9月19日号)

⑦ WEDGE 2004年3月号で「職人気質を忘れた日本のもの作りに未来ない」

⑧ 靴産業百年史(日本靴連盟)昭和46年

⑨ 大谷知子氏:かわとはきものNo109「靴業界の将来と人材の登用と育成」

⑩ 村上、清水:職業能力開発大学校技能と技術2011年2号「“ものづくり”における“こだわり” 」

⑪ 野中 帝二:富士通総研「技術・技能伝承への取り組み」(2008年11月)

⑫ 野中 帝二:富士通総研「先送りされた技術・技能伝承「2012年問題」(2012年4月)

(注1):この靴は、宮内庁に納められた靴のレプリカ。写真提供は大塚製靴:OTSUKA・M-5

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